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2005年07月14日 (木) 00:00 | 編集

多摩市と町田市の境で案内板を発見!
「いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府」の樹立の際
源頼朝が鎌倉目指して、この付近を通ったらしい
ということにビックリ!

小野路と鎌倉古道
現代の鎌倉街道が南北に通るこの谷は、多摩市の乞田の五差路から
古戦場伝説や大きな道路跡が発見された町田市の野津田の丘まで、約
4.5kmに渡ってほぼ南北に真っ直ぐ伸びた自然の谷です。
それと平行するように、この道の西側約400mの多摩市南野から
町田市の小野路の宿にかけては中世武士の時代の幹線道路であった「鎌
倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)」が通り、また東側の小野路町別所に
も同様に鎌倉道と伝わる道が尾根の上を通っています。これらの中間
に位置する現代の鎌倉街道の谷も、長い戦乱の時代には大勢の武士や
兵士が通り過ぎていったことが考えられます。
鎌倉街道や小田原への早道
治承四年(1180)十月二日、源頼朝は伊豆で旗挙げするも敗戦し、
海を舟で渡って房総半島に逃げ、そこから隅田川を渡り浅草付近で千
葉氏や江戸氏らの支援を受け体制を取り戻しました。その後、府中か
ら一路この付近を通って鎌倉をめざし、我が国初の武士による政権「鎌
倉幕府」を樹立します。しかし、この時にはまだ鎌倉街道は出来てい
ませんでした。
幕府樹立から六年後にも頼朝は「奥州藤原氏征伐」の往復で、また
十三年後の建久四年六月「那須野の狩」でも鎌倉から府中に向かって
います。この頃には鎌倉街道と後に呼ばれた道ができ始めたものと考
えられます。その後も新田義貞の鎌倉攻め、観応の擾乱での足利尊氏
軍の通過のほか、上杉輝虎(謙信)軍の小田原攻め帰路での通過など、
いずれも大軍勢がこの谷や鎌倉古道を通過していったものと思われます。

地図拡大(上部)
※上が南、下が北です。

地図拡大(下部)
※上が南、下が北です。

線の説明
※「多摩よこやまの道」を除
く古道は推定ルートです。
危険な崖や私有地などがあ
り、現在は通行できない箇
所があります。
※( )内は現在の地図には
ない名称です。
以上、案内板より。
05年7月11日
東京都多摩市南野 にて
>>>その他の都下の史跡

使用カメラ:PENTAX Optio S50
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